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「認知症」や「老年期うつ病」を介護する家族へのエール、闘えない病気の闘い方

こんにちは。ちえさんです。

今回は、「闘えない病気」と闘うご家族のお話です。

認知症やうつ病介護をしているご家族は、

『この先、いったいどうなるの?』

と、

不安になったり、先の見えない毎日に無力感を感じたりすることもあるのではないでしょうか?

 

でも、私は思うんですよね。

『寄り添う』だって、立派な介護だし、それは停滞でも後退でもなく『前進』なんです。

『闘えない病気の闘い方は、イマにそっと寄り添う事』

私はそんなふうに思っています。

今回は

私が、そう思えるようになったキッカケを、ご紹介したいと思います。

 

「闘えない病気あること知って」という新聞投稿から思うこと

私の部屋のコルクボードに、小さな切り抜きが、押しピンでとめてあります。

 

「闘えない病気あること知って」

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の夫を看病してきた女性の投稿です。

 

すでに黄ばみかけているその切り抜きが、いつから貼られているのか覚えてないのですが

その投稿は、私の心を動かし、月日がたってもずっと貼られています。

 

「徐々に進行する病気への苦悩」と、「病気でも得られる幸せはあること」が綴られています。

 

「闘病」という言葉をネットでしらべると

”病気を治そうという強い意志で療養につとめること。”と書いてあります。

 

でも、

「強い意志」をもってしても、闘えない病は、あるんです。

 

努力しても治らない病気に寄り添う家族の気持ちって?

この夏、私のいとこが、ひっそりと息を引き取りました。

 

重度の脳性麻痺で生まれたいとこは、手も足も不自由で歩くことさえ困難だったけど、

いつだってサイコーの笑顔で、みんなに愛されていました。

 

呂律のまわらない口調で、私のことを「てぃえこちゃん」と呼び、手のひらに握りしめたお菓子を、いつも半分わけてくれました。 

 

彼女の人生は、てんかん発作とけいれんに悩まされる、苦痛の多い日々だったろうけど、あんなに愛された人を私は知りません。

 

私の母は、認知症でした。

戦後の困窮した時代に青春時代をすごし、家庭に入ってからも何かと苦労の多い毎日を、もち前の忍耐強さで、きりひらいてきた人です。

 

義理の母は、うつ病になりました。

自分の思うままだったプライド高き人生が、ある日突然、なにひとつ自分でコントロールできなくなりました。

 

私が看護師として働いていた循環器科では、1歳の息子を残して心臓発作で突然死するパパもいたし、

精神科では、20歳という輝く時期に、統合失調症になる若者を沢山みてきました。

 

努力ではどうにもならない病気、つまり、「闘えない病気」というものは、私の周りに、いつもあったのです。

 

世の中には、治したいけれど、どうにもできない病もあります。

 

どんなに対策をねっても、立ちはだかった大きな岩が、びくとも動かないこともあります。

 

そして、そんな時

「闘えない病気」に寄り添う家族は、その「大きくて見えない岩」と必死に闘っています。

 

ある医師のコラムが教えてくれた、「寄りそう」いう意味

 

日々、そんな『闘えない病気』に接していると、先の見えない虚しさを感じることもあるかもしれませんが、

私は、そんな時、ずいぶん前に目にした、あるコラム記事を思い出します。

 

それは、1999年に茨城県東海村の臨界事故当時に、医師によって書かれたコラムです。

その事故では、600人以上もの方が被爆し、そのうち作業員2名が死亡しました。

 

現場で治療にあたっていたその医師は、

全身に大やけどを負った意識不明の重体患者を、懸命に治療します。

 

病状は悪くなる一方で、もう、治療の手立てがありません。

万策つきて、「無力感」にとらわれた時、

気がつくと、目の前では、

ずっとかわらず、絶え間なく看護は続けられていた、という内容でした。

 

病室では、

焼けただれた皮膚のガーゼを交換し、意識のないの患者に声をかけ、看護は続いていきます。

 

医師は、その光景をみた時、

「治療の手立てがない医師は無力だけど、そんな時でも看護は絶え間なく続いていくんだ。決して無力ではい。」と、思われたそうです。

その医師のコラムを読んで、究極の追い詰められた状況でも、素直で冷静な視点を忘れないその医師を尊敬したし、そんな医師がいる医療チームは、本当に素晴らしいんだろうなぁ、と感動したのを覚えています。

そして私は、その医師のコラムで、「看護という仕事の意味」を知ることになりました。

 

看護は、どんな時も絶え間なくつづいていく。

 

話が長くなってしまいました。

 

なにがいいたいのかといいうと、

「闘えない病気」でも、看病をつづけ、寄り添うことはできるということです。

「闘えない病気」に寄り添う家族は、寄り添うことで充分に看病しているし、ちゃんと前にすすんでいます。

後退でも停滞でもなく『前進』なんですよ。決して「無力」ではありません。

 

非科学的と笑いますか?「祈る」「願う」でもいいじゃない

そして、どんな状況でもいつでもできることがあります。

『願う』『祈る』ということです。

 

それなら、いつでも、誰にでもできます。

私は、なにかの宗教にハマった事もないし、「手から魔法」がでるわけでもないけれど、

「願う」という行為は、個人的には、とても好きです。

 

いつでもできるし、だれにも迷惑をかけません。

なにより、ポジティブになれます!

 

「医療職なのに、”願う”なんて、非科学的なことを・・・」

と、笑われるかもしれないけれど、

「願うって、あんがい効き目があるんですよ♩」

ワタシはホンキで信じているんです。

 

まとめ

世の中は「闘える病気」ばかりではありません。

むしろ、「闘えない病気」のほうが多いんじゃないかと思うし、「闘えないまま向き合うしかないシンドさ」というのも、あるんです。

 

高齢者介護をしていると、「認知症」や「うつ病」という病に遭遇することも多いし、その場合、家族は、「待つ」と「寄り添う」ことしかできないジレンマに陥ることも多いですね。

けれど、それは、無力なことではなく、充分に意味のある事なんだと、私は思うんです。

 

「祈る」「願う」「待つ」「受け入れる」「寄り添う」

それでもいいじゃないですか。

 

充分、がんばってますよ!家族の皆様!

闘わない闘い方だって、あるんです。

 

そして

そんなふうに寄り添う家族にとっても、「自分自身の今」は大事です。

介護は持久戦。

 

闘わないたたかい方で、自分自身を大事にしながら、ぼちぼち行きましょうよ。

そう、ゆっくりと、「願い」ながら、、、ね。

 

遠距離介護でも大丈夫!

なんとかなりますよo(*゚▽゚*)o

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離れて暮らす家族を全力応援!

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ちえさん
遠距離介護のケアミーツ代表