遠距離介護でも大丈夫!なんとかなりますよ♪

 

遠距離介護を抱えていても

本当の自分らしい未来を生きよう。

大丈夫!なんとかなりますよ♪

byちえさん

アニメ版プロフィール

30歳で遠距離介護スタート。
介護離職・乳がんを経て、ケアミーツ誕生までの軌跡をアニメーション動画にしました ♪♪

※9分36秒の動画です(声は本人です)

 

テキスト版プロフィール

文字でご覧になる方はコチラをご覧ください。

 

私は、長崎県の五島列島に生まれました。

父は、遠洋漁業の漁師です。

小学校では、明るくて活発な女の子

中学は、お友達の家に集まって、トランプばかりしてました。
(島には、映画館もゲームセンターもなかったから・・・)

高校生になって進路を選ぶとき、大学ではなく看護学校を選びました。
ウチにはお金がなかったし、両親はずっと不仲だったし、
将来、親に介護が必要になっても、手に職があればで食べていけると考えたからです。

進学した看護学校は、東京のど真ん中、新宿にありました。
私は、突然「東京人」になりました。

ミスタードーナツもサーティーワンも初めて食べたし、
高層ビル街を歩いていると、急に「都会のヒト」になった気がしました。

だけど、現実は、それほど甘くなくて、
看護学校の生活は、昼間は病院実習、夜は、真夜中までレポートを書く、超ハードな毎日。
時代は、バブル期の真っただ中。
ディスコであそぶ華やかな大学生は、自分とは別世界すぎました。

看護学校を卒業した私は、看護師さんになりました。
働いたお金で、海外旅行にもいけるようになって、
チョットだけ「自由」になれた気がしました。

だけど、
そんな生活も、長くは続かなかったのです。

母が認知症になった時、私はまだ、30歳でした。

その日から、一転、私の人生は介護一色になっていき、
東京と五島列島を往復する遠距離介護生活は、それから、トータル17年間も続くことになるのです。

やがて、母につづいて、父も認知症になり、私はますます介護におわれるようになりました。

五島列島に帰るには、片道1200キロ、11時間の道のり。
旅費だけで10万円。働いたお金は、介護に消えました。

東京で仕事→羽田へ→博多港を24時に出るフェリー→朝6時に島に到着。
それがいつもの帰省ルートでした。

介護保険を使いこなすためにケアマネの資格までとったけど、「介護保険で出来ないこと」は山ほどありました。

父や母が入院するたびに、呼び出しがきて、
慌てて駆けつけると、大したことではなくて拍子抜けすることもあれば、
予想に反して、何日も付き添いが必要なこともありました。

仕事に穴をあけることが続き、職場にもいずらくなりました。

介護離職、介護転職。

親戚からは、

「だったら島に帰っくればいいのに。」と責められて、
それ以来、愚痴れなくなりました。

もしもUターンしたら、私の未来はどうなるんだろう?
「両親を看取ったあと、島の中で私はひとりぼっちで歳をとっていく。」

そう思うと、Uターンにはどうしても踏み切れませんでした。

親は大事。親孝行もしたい。
でも、自分の人生もあきらめたくない。

・・・

Uターンしないと決心したのはいいけれど、
遠距離介護も、現実はしんどい・・・。

いつしか私は、「私を助けてくれる誰か」を探し求めるようになりました。

そんな時、私は、あるひとりの女性と出会うことになるのです。
それが、実家の近くに住む、看護師のA子さんでした。

この出会いが、その後の私の介護人生を大きく変えるきっかけになるのです。

わたしは、A子さんに、「私のかわり」をプライベートでお願いするようになりました。

A子さんは、父が入院した病院に行って、着替えを揃えてくれ、
東京の私に、状況を知らせてくれるようになりました。

私は、今すぐ帰省すべきか、様子をみてからでいいのか把握できるようになって
帰省回数が、格段に減っていきました。

A子さんは、看護師なのに、父が入院中の留守宅の管理や郵便物の回収、施設にいる母のお見舞いまで、まるで私の分身みたいに動いてくれました。

私は、「いざという時に頼れる人ができた」そう思うだけで、毎日の不安が軽くなったし、時間とキモチにゆとりがもてるようになりました。

そうして私は、30代の最後に、結婚をしました。

そんな私に、人生最大のピンチがやってきた。乳がんになったのです。

A子さんは、

「大丈夫です。安心して手術を受けてきてください。お父さんのことは任せてください」といって、励ましてくれました。

私は、「A子さん」の存在に泣くほど感謝したし、
この時、A子さんと2人で食べた巻き寿司の味は、きっと一生わすれられません。

ありがたいことに、乳がんは超早期だったので、私は今も、とても元気です。

そうやって私は、
2010年に母を看取り、2015年には父を看取り、17年間の遠距離介護を終えることができました。

介護から解放されて、「自由」になった私は、その自由な時間をつかって、
こんどは私が、横浜で「A子さん」を始めることにしました。

かつての私と同じ悩みをもつ人を、助けたいと思ったのです。

とはいえ、
起業のノウハウもゼロだったし、何からはじめていいか分からなかったから、
まずは、ノートパソコンを買いに行って、本を片手にホームページを手作りしました。

そして、ドキドキしながら、はじめてのブログを書きました。

読者さんに感想をもらった時は、うれしくて何度も読み返しました。

ビジネスコンテストにも挑戦しました。

パシフィコ横浜の大きなホールで、大勢の前でスピーチする私をみて、
天国の父と母は、「がんばれー!」と応援していにちがいありません。

そんなふうに、少しずつ「横浜のA子さん」を続けるうちに、
私のもとには、いろんな人が相談に来てくれるようになりました。

横浜から遠いところにお嫁に行った娘さんや、仕事が忙しくて実家に行けない息子さんや、
オジさんおばさんのお世話にまでは手が回らな姪御さんなどです。

ご家族の悩みはさまざまで、単純に、「家族の手代わり」を頼まれることもあれば、
看護師ケアマネの視点でのアドバイスや、うつ病や認知症の、難しい対応のこともあります。

だから、私は、
病院に駆けつけたり、手術に立ち会ったり、宅配弁当の手配をしたり、大掃除や電化製品の買い替え、親御さんのメンタルケアから老人ホームさがしまで、
介護保険ではできない、いろんなお手伝いをしています。

お客様の中には、帰省回数が減って往復の飛行機代や新幹線代が大幅に削減できた人もいるし、私に任せることで、時間と体力にゆとりができて、
体調を崩していた人が元気になったり、中断していた趣味をまた復活させたり
親とのケンカが減って優しくできるようになった、という人もいます。

ギクシャクしていた夫婦仲が改善したり、介護離職を思いとどまるケースもでてきました。

なによりも嬉しいお客様の声は、
「いつもココロの支えになっています」というコトバです。

私は、こんなふうに、本来の自分らしさを取り戻していくご家族の笑顔を見るのが、とても嬉しいのです。

みんな、それぞれ事情はちがうけれど「家族だからこそ」の悩みを抱えていて、「いざという時の頼り先」に困っています。

私は、その、「頼れる誰か」になりたいし、介護する家族の、夢や希望を、まっすぐに叶えていきたいのです。

世の中には、たくさんの介護サービスがあるけれど、離れて暮らす家族を専門にするサポートは、ほとんどないのが現状です。

「A子さんというイチ個人の自費サービス」に、人生を救われた私は、
「イチ個人」だからこそできる「柔軟さ」をよく知っているし、
その柔軟さこそが、いざという時の安心に繋がる、と思っています。

もしも「A子さん」が、日本中にいたなら、
離れて暮らすたくさんの家族が幸せになるのにと、私は思うのです。

A子さんと出逢う前の私は、幸せな未来なんて全く想像できなかったし、ただ黙々と日々をこなしながら、田舎からの呼び出し電話に、いつも怯えていました。

そして気がついたら、帰省して親に会うことさえ、憂鬱になっていました。

介護をしている人の多くが、こんな気持ちになることがあるというけれど、

私は、A子さんと出逢って「いざという時に頼れる人」ができたおかげで、
日常的な不安から解放されたし、なにより、親との時間を、もっと大切にできるようになりました。

そして最後に、両親を心からの「ありがとう」で、見送れたことは、私の誇りです。

・・・

あなたが、本当に生きたい未来は、どんな未来ですか?

どんな助けがあれば、それは叶うのでしょうか?

もしも今あなたが、介護のために自分らしい理想の未来を諦めかけているなら、

どうか手放さないで欲しいんです。

なぜなら、人生は一度きりだからです。

同じ人生なら、諦めて選択する人生よりも、理想の人生を歩んだ方が楽し いと、私は思っています。

そのために、今できることをしていきませんか?

私は、かつての私と同じような悩みや、未来の夢を持っている人のために、お手伝いをしていきたいと思っています。

そして、いつか、介護を乗りこえたあなたと、未来で一緒に、笑っていたいのです。

 

遠距離介護でも大丈夫。なんとかなりますよ!

ここまでご覧いただき、本当にありがとうございました。

 

安並ちえ子(ちえさん)