はじめまして。ちえさん(安並ちえ子)です。
私は、小さい頃からずっと、
「親介護は、子である自分の役目だ」と思いながら生きてきました。
「親孝行」「良い娘」「役に立つ娘」
それが、私でした。
そして、その「いい娘」という役割に、ギューギューに縛られた私の人生は、
しだいに「おさき真っ暗の、絶望的な人生」になりました。
でも、ある時、一人の女性との出会いから、人生が変わっていったのです。
その出会いがあってから、急激に視界がひらけて
自分の未来に希望が持てるようになりました。
そして、最期は、なにひとつ後悔することなく、心からの笑顔で
「お母さんありがとう」「お父さんありがとう」と両親を天国に見送ることができました。
自分が理想とする介護のゴールに、たどり着いたのです。
そして、介護が終わったあと、
本来の自分がいるべき「幸せな場所」に、しっかりと戻ることができました。
こんな日がくるなんて、
「私の人生、おさき真っ暗・・・」と思っていた当時の私には、
まったく想像もできませんでした。
あるシンプルな考え方と方法を実践するだけで、
遠く離れて暮らす親の介護(遠距離親介護)は、
劇的にラクになります。
例えば、私のように、
片道1200km(東京ー長崎)離れていたとしても、です。
だから、私は、あなたに伝えたいのです。
大丈夫です!
あなたも必ず「幸せなゴール」にたどり着けます。
東京から1200km離れた五島列島に住む母は、69歳で認知症になりました。
「お母さんが、おしっこを漏らした!」
実家の父からの、突然の電話でした。
そこからが、私の、親介護との戦いでした。
その時、私は30歳の独身で、東京の下町で看護師をしていました。
「人並みに結婚して子供も欲しいなぁ・・・」
そんなことを考える平凡な毎日は、
母が認知症になったことで、ゴロンと大きく変わることになったのです。
愛情深く育ててくれた最愛の母のために、私に何ができるのだろう?
私は、「誰よりもしっかり者の母が、認知症になった」
というショックの中で、
「母のためなら、全力でなんでもしよう!」そう決意しました。
とはいえ、
「あなたには幸せになってほしい」
そう言い続けてくれた母のために、私自身も、必ず「幸せ」にならなくちゃいけない。
いつの日か、両親が天国に旅立ったあとも、私が幸せでいることが、母の望みだから・・・。
とも感じてもいました。
その二つを、どうやって叶えたらいいのだろう?
「東京の生活を捨てて、田舎にUターンしたほうがいいのかな?」
気持ちはグラグラ揺れました。
父も親戚も、みんな、大声で、
「田舎に帰ってこい! こっちの病院で働けばいいじゃないか!」
と猛烈なプレッシャーをかけてきました。
「Uターンした場合」「遠距離介護の場合」「東京に呼び寄せた場合」
何度もシュミレーションしては、
どこにも行き着けない答えに、苦しんでいました。
そして、
すさまじい葛藤のなかで、私が選んだのは、
離れて暮らしながら遠隔で親介護をすること(遠距離介護)でした。
「Uターンして一生をすごす人生」を想像したとき、
そこに、「幸せなじぶんの姿」を見つけることはできなかたのです。
ともあれ、
その時はまだ、
これから始まる遠距離介護が、17年もの長期にわたることも、
遠く離れた親の介護(遠距離介護)と自分の生活との両立が、
どれほど過酷になるかということも、
私には、ぼんやりとしか想像できなかったのです。
遠く離れた親の介護(遠距離介護)は、私から、体力、お金、仕事、時間、夢、希望を、どんどん奪っていきました
両親の住む、五島列島(長崎県)に帰省するには、
飛行機とフェリーを乗り継いで片道11時間、1200kmの道のりです。
夜21時に羽田空港を飛びたつ飛行機で福岡に向かい、そこから博多港へ移動。
博多港を真夜中24時に出航するフェリーで早朝6時に五島列島に着く。
それが私の、いつもの「帰省ルート」でした。
一回の帰省にかかる費用は、10万円ほどです。
なぜ、夜行便で帰るのかというと、昼間に働いたその足で
帰省するからです。
仕事も辞められないし、親の面倒もみないといけない。
自分は東京で暮らしながら、同時に、田舎の親の生活を維持させなくてはいけない。
遠く離れた親の介護(遠距離介護)は、心身ともにハードで、
私から、体力、お金、仕事、時間、夢、希望を、どんどん奪っていきました。
主婦である母が認知症になるということは、
同時に、父のお世話も必要になるということです。
船乗りだった父は、魚料理と洗濯はできましたが、母のようにはいきません。
実家は、あっという間に、汚れ物とゴキブリだらけの汚部屋になっていきました。
やがて、数年後
母の介護をしていた父までもが、認知症になり、
母のお世話だけではなく、父と母、二人の高齢者のお世話で、
私の人生は、埋め尽くされていったのです。
まったく先のみえない介護。お金も体力も限界に。
そんな状況でも
独り身だった私は、仕事を辞めるわけにいきませんでした。
仕事して、帰省して、また仕事して、帰省する。
その繰り返し。
帰省中は、目の回るほどのハードスケジュールです。
真冬のまだ暗い朝6時、島に降りたって実家につくと、
すぐさま、手袋とぞうきんを取り出して掃除にとりかかる。
昼間は、母の介護施設に行ってケアマネと逢ったり、
役所に手続きに行ったり、
時には、父と母の両方の定期受診に付き添って、主治医に話をきいたり、
いつもいつも、時間との戦いでした。
自分の食事にかまっている時間もなくて
スーパーで買ったバウムクーヘンをよく食べていました。
なんでバウムクーヘンなのかというと、
腹持ちがするし、腐らないし、個別包装で、歩きながらでも食べれるから・・・。
帰省している間にやらなくちゃいけない親介護のミッションを
慌ただしくこなすうちに、
いつの間にか夜になってしまって、
気がつくと、自分の夕食を買いそびれたりします。
親が眠った夜中に、空腹でバウムクーヘンをかじっていると、
ものすごく切ない気持ちになりました。
追い立てられるように、東京と五島列島の往復を続ける生活。
まったく先のみえない介護。
こんな生活が、この先、あと何年続いていくのだろう?
そう思うと、夢も希望もなくて、
こころの底から絶望的な気持ちになるんですよね。
お金もギリギリでした。
私が働くお給料なんて、たかがしれています。
そのお給料から、自分の部屋代と生活費をまかない、帰省の旅費を払い、
時には、両親を喜ばせたくて温泉旅行につれていく。
急病で田舎に呼び出される時は、安い航空券が使えないので、
片道の飛行機代だけでも3万円ほどかかります。
働いても働いても、介護と親孝行にお金が消えていく・・・。
消えていくのは、お金だけではありません。
時間も同じように消費されていくのです。
わずかな有給休暇は、その全てが介護帰省に消費されるため、
風邪を引いても会社を休むわけにはいきません。
職場に迷惑をかけてばかりの日々。介護離職、介護転職、介護休業
職場でもっとも辛かったのは、両親が急病になって呼び出された時です。
突然仕事に穴をあけることが重なると、職場の空気は明らかに冷たくなっていきますね。
親が入院すると、数日間拘束されることはあたりまえで、
結果的に、欠勤も長期になって、職場の信頼も失っていきます。
その当時、働いていた職場には、
親の介護をしている社員は、ひとりもいませんでした。
若い女性が多い職場でしたので、
話題といえば、彼氏の話や婚活や、子育てがほとんど。
30歳で親の介護に悩んでいる同僚なんて、一人もいないんですよね。
だから、愚痴をいいあえる仲間もいなかったし、
それどころか、上司からは、
「30代で介護って、本当なの? 他に面倒を見る人はいないの?
親なんてさ、さっさと施設に入れちゃえよ!」
などと、嫌味を言われたり。
そうなると、ますます、職場の中で孤独になっていくんですよ。
そして、病院から呼び出しがあるたびに、仕事はドタキャン。
職場に迷惑をかけている負い目があるから、人一倍働いてマイナスを埋めようとする。
ますます消耗して、疲弊していく。
そんな不毛な日々を送っていました。
たまに呑み会にいくと、
「親の介護? なんだ、ワケありかよ!」
と言われる始末。
親の介護をしている私は「ワケあり」に分類されるのか・・・。
愕然としました。
もう、恋愛もできない
お金もない
働かないと暮らせないけど、職場の中に居場所がない。
体力も限界。疲労が積み重なっていく。
そんな私の追い詰められたキモチとは関係なく、
父と母が、かわりばんこに病気になります。
「骨折で入院されたのですが、ご家族はいつこれますか?」
病院からの呼び出しは、恐怖のコトバです。
「行きません」という選択はないんですよね。
家族はすぐに病院に駆けつけないといけないんです。
「家族が遠方かどうか」は、病院には関係ないですからね。
私は、
緊急帰省用の荷物セットを準備しておいて
病院からの呼び出しに、いつも怯えてくらしていました。
有給休暇は自分のためには使えず、
新しい服も買わず、オシャレもしない。ムダなお金は使わない。
その頃の私は、まるで、修行僧のようでした。
介護離職、介護転職、介護休業。
全てを経験しました。
「親孝行」というコトバが、大嫌い。 私はこの世界で「ひとりぼっち」?
とはいえ、
遠距離介護がツライからといって
親戚にも親にも、愚痴を言えませんでした。
そんなことを言えば、
「こっちで暮らせばいいじゃない。なんで東京なんかにいるの?」と、
「Uターンしろ!帰ってこい!」と言われるのは目に見えています。
田舎にUターンして、ただひたすら介護して、介護しながら働いて
親を看取る・・・。
それは10年?それとも20年?
介護を終えた時、私はいったい何歳になっているんだろう?
まだ独身で? その後の人生はどうなるの?
私が親の年になったときは、いったい誰が私の面倒を看てくれるんだろう?
親戚はみんな、私の未来なんて考えてない。
「親孝行しておけば、きっといいことがあるよ。」
「一生懸命、親孝行しなさい。それが、自分のためになるんだから」
そんなことを、いったい何度、言われたことだろう。
「親孝行というワードは、まるで呪いのコトバみたいだな・・・」と思いました。
言われるたびに、
「良い子」の私は、いつだって、「うん、そうだね!」と、笑顔で応えていました。
本当は、絶望しそうなくらいヘトヘトなのに・・・。
私はどこまで頑張ればいいの?
「親孝行」というコトバが、じわじわと私の人生を奪っていく・・・。
そのうち、
「あなたは親孝行な娘だね」といわれるたびに、
嫌悪感を感じるようになっていきました。
愚痴を聞いてくれ、励ましてくれる親友はいるけれど、
実際の介護を手伝ってもらえるわけじゃない。
結局は、「わたしひとり」でやるしかないんだ・・・。
そう思っていた私は、
「この世界中で、ひとりぼっち」でした。
「ひとりぼっちの私」が、どん底で出会った救世主とは?
その、「ひとりぼっちの私」は、いつしか、
「誰か、私の代わりに、ウチの親の様子を見にいってくれませんか?」
と、私を助けてくれる、まだ見ぬ「誰か」を探し求めるようになりました。
業務としての介護ヘルパーさんではなく、
「親孝行は子がすべき」と言う親戚でもなく、
個人的に、ひっそりと「私だけのために手助けしてくれる誰か」の存在。
ココロの奥底から、そんな「誰か」を探していたんですよね。
そんなある日、
私は、探し求めていたその「誰か」に出逢うことになるのです。
まさに、キセキの出会いでした。
それが、
看護師のA子さんです。
「私がお手伝いしますよ」「なんでも言ってくださいね!」
その言葉に救われました。
この、A子さんとの出会いが、
後半の遠距離介護生活をささえる、ターニングポイントになっていくのです。
私は、ポケットマネーでA子さんに、「私のかわり」を、
こっそりお願いするようになりました。
父が入院すると、まずは、A子さんが病院に様子を見に行ってくれて、
必要なものを買い揃えてくれたり、東京の私に父の様子を知らせてくれます。
それだけで、
「すぐに帰省すべきか、それとも、仕事の段取りをつけてから帰ればいいのか」
が把握できて、対応が格段にラクになりました。
帰省のスケジュールがたてやすくなり、
仕事をドタキャンすることが減っていきました。
A子さんは、時には、実家の掃除をしてくれたり、
母が暮らす施設にお見舞いにいったり、父の話し相手になってくれたり。
父が入院中の空き家の管理をしてくれたり。
それは、まるで、「ワタシの分身」みたいでした。
私が帰省したときには、
A子さんの車に乗せてもらって、二人で買い出しにいきました。
そんなおつきあいを繰り返すうちに、
A子さんとの間には、親戚とも親友とも違う、ふしぎな絆が生まれていったんです。
A子さんのおかげで、全てをひとりで抱えなくてもよくなり、
人生に希望が湧いてきた私は、
母の願いどおり、
「私は、この介護を乗り切って、きっと幸せになる!」
と、未来を再び信じられるようになっていきました。
A子さんとの出会いを機に、私の介護人生は、どんどん明るい方へ好転していったのです。
このころ、
もうひとつ、人生を変える出会いがありました。
今の夫と、結婚したのです。
A子さんと出会ったことで、些細なことで呼びだされなくなった私は、
少しずつココロの余裕がもてるようになっていきました。
それと同時に、自分自身の幸せについて、真剣に考えれらるようになっていったのです。
田舎に帰って夫を紹介した時には
母はすでにカタコトのコトバしか話せなくなっていましたが、
私と夫の顔をじーっと見比べて、嬉しそうな笑顔を浮かべながらボロボロと泣いたのです。
コトバは話せなくても、ちゃんとわかっていたのですね。
「お母さん、私、幸せになるね!」
そのとき、私は、39歳になっていました。
本格的に介護がはじまって9年目。
東京での生活も「ひとりぼっち」ではなくなり、
田舎ではA子さんという「私だけの応援者」ができて
どちらにいても「ひとりぼっち」ではなくなりました。
そしたら、今までと比較できないくらい、人生が明るくなっていったんですよ。
母を看取って、ホッとしたのも束の間。 自分が乳がんに!
それから3年後、母は静かに旅立っていきました。
私は、最後の1週間を、ずっと母のそばで過ごすことができたし、
心からの感謝の気持ちを込めて
大好きな母に「ありがとう」といって看取ることができたのです。
母のお葬式には、A子さんも参列してくれました。
母を天国に見送ったあとには、認知症の父が残されました。
とはいえ、
もう「ひとりぼっち」ではないし、
「これからは大丈夫!」と思っていたんですよね。
でも、最大のピンチは、実は、まだ先にあったのです。
もともとワガママ勝手だった父は、
認知症の進行ととともに、どんどん手をつけられなくなっていました。
デイサービスには1時間もいられませんでしたし、
家にいても、
・バイクのキケン運転で警察のブラックリスト入り
・ご近所トラブル多発
・せっかく入所したグループホームを脱走して、家に立てこもる
・風呂に入らない、着替えない、怒鳴る、キレる
・ボヤ騒ぎ
書いたらキリがありません。
介護の対象が、父一人に減ったはずなのに、
父と母の二人の時と、労力はあまり変わらない感じなんですよね。
父は、その後も
いろんなトラブルを巻き起こし、すったもんだの果てに、
まったく歩けなくなってからやっと、グループホームに入ってくれました。
私は、
「あぁ、これでやっとラクになるかも・・・。」と思ったし、
「父に振り回されるのは、もうごめんだ・・・。」とも思っていました。
でも、その矢先に、大事件が起こりました。
なんと、
私が「乳がん」になったのです。
「なんで、わたしが?」という思いの後に、「あぁ、やっぱりね・・・・」と思いました。
タバコもお酒もやらない、健康オタクの私がガンになる。
あれだけの過酷な日々で、長期間ストレスにさらされながら生きてきたので
ガンになってもおかしくないな、と思ったのですよね。
「あぁ、やっぱりね」と納得している自分が冷静すぎて、苦笑してしまいました。
とはいえ、
ガンの告知をうけてからも、
自分のことだけ考えているわけにはいきません。
「1年後、自分は生きていられるのだろうか?」
という圧倒的な絶望感と恐怖を抱えながら、
一方では、
「あのトラブルメーカーの父を残して、ワタシが死ぬわけにはいかない。」
と思ったわけです。
ともあれ、
手術の直前に島に帰り、父の衣類を補充し、術後しばらく帰らなくてもすむようにしました。
帰省する飛行機の中で私は、「乳がん治療」の専門書を一心不乱に読んでいて、
隣の男性がドン引きしていたのを覚えています。
きっと、ただならぬ悲壮感が漂っていたんでしょうね。
乳がんになったことは、田舎の親戚には言いませんでした。
「心配をかけたくない」のと「へたに騒がれても面倒なだけ」というキモチの両方です。
介護施設のスタッフにもケアマネにも言いませんでした。
私は、帰省の間、いつもと変わらず笑顔で対応していたので、誰も気がつかなかったはずです。
結局、帰省中に、乳ガンになったことを打ち明けたのは、A子さんだけでした。
「大丈夫です!お父さんのことは私に任せてください。安心して手術を受けてきてください!」
A子さんの言葉に、私は思わず、泣いてしまいました。
気丈にふるまっていた糸が、プツンと切れたみたいに・・・。
A子さんも、私と一緒に泣いてくれました。
この時、A子さんの自宅でご馳走になった巻き寿司の味は、いまでも忘れられません。
私は、親戚には誰一人言えなかった乳がんのことを、A子さんには言えたのです。
手術前に、私の乳がんを知っていたのは、夫と、ごく少数の親友と、
A子さんだけと考えると、
私が、どれほどA子さんを頼りにしていたかわかると思います。
乳がんの治療は、幸運なことに、手術だけですみました。
再発もなく、おかげさまで元気に過ごしています。
ガンが教えてくれたこと。父との最後の日々。遠距離介護の終わり。
私は、ガンになったことで、
命(いのち)について、より一層、深く考えるようになりました。
そして、この時、
私の人生を大きく変える、二つのコトバに出会うことになるのです。
一つ目のコトバは、
「命(いのち)とは、自分が持っている残り時間である」
という概念です。
これは、
日野原重明医師(聖路加国際病院)が「いのちの授業」で小学生に教えていたコトバです。
つまり、「命=時間」なんですよ。
衝撃でした。
命とは、つまり、「自分に残された時間」なんです。
たしかに親の残り時間も大事かもしれないけれど、
誰にとっても、命の砂時計はサラサラと減り続けているわけで、
介護をする側の家族の残り時間も、サラサラと減り続けているのです。
そして、
2つ目のコトバは、
「身体髪膚、両親にもらいました」
とうコトバです。
乳がんになって、手術をする。
あたり前にあった臓器が、なくなる。
いつから、当たり前にあったのだっけ?
と思うと、体も髪の毛も皮膚も、
ワタシを形作っているものは全て、父と母からもらったものなんですよね。
そんなことに、アリアリと気がつきました。
それまでの私は、父に「ダメ親父」のレッテルばかり貼っていました。
「自分勝手!」「なんで、ワガママばかり言うの?」「もう、いい加減にしてよ!」
つい、そんなふうに言ってしまうのは、
さんざん家族を振り回してきた父に対する、わだかまりがあったからです。
ところが、
乳がんになったことで、この二つのコトバと出逢ったことで、
長年わだかまっていた父との関係が、180度ガラリと変わりました。
思いもよらぬ、「ガンからのギフト」です。
丸い鼻も、小さな足のサイズも、指の形も、私は、父にそっくりです。
ぜんぶ、父と母がくれたものです。
そう思ったら急に、父への嫌悪感が消えて、愛しさと感謝が生まれてきたのです。
親孝行というコトバは大嫌いだけど、
「両親もワタシも、それなりに頑張ってきたよね。」
と、自分のことも、父のことも、ゆるやかに肯定できるようになりました。
親も子も、
「自分の命(命)=残り時間」を、
「自分が思うように使ってもいいんだ!」「自由に生きていいんだ!」
と、ストンと腑に落ちたんです。
晩年の父は、肺炎で入院を繰り返すうちに、
徐々に弱っていき、ついには、寝たきりになりました。
「そろそろ、看取りを覚悟してください。これ以上治療しますか?」という医師に
「もしも自分で食べるれるなら、もうすこし治療してください」とお願いしました。
その時の私は、ただ、単純に、父に生きていてほしかったのです。
それから父は、何度かの誤嚥性肺炎を繰り返し、
海辺の施設で、静かに息を引き取りました。
父は、息をひきとる最期の最期に、
私に命がけのプレゼントを残してくれました。
横浜からかけつける私を、待っていてくれたのです。
私が、危篤の連絡を受けた夕方には、父の呼吸は、すでにだいぶ弱くなっていました。
横浜から五島列島にかけつける、気の遠くなるような、長い長い距離と時間、
かすかな息だけをしながら、父は私を待っていたのです。
そうです。
羽田をでる21時の飛行機に乗り、夜行のフェリーで移動して、朝6時に島に着く。
これまで何度も何度も、繰り返してきた帰省のルート。
はるか1200km、11時間の長距離を、
「どうか、間に合いますように・・・」と、神に祈るような気持ちで移動していく私を、
真夜中の海を渡るフェリーの中で「悪いメールがきませんように」とスマホをみつめる私を、
夜明け前の港に着くなり、真っ先に飛び降りて、猛スピードでレンタカーを走らせる私を、
父は、最期の力をふりしぼって、ずっとずっと待っていてくれたのです。
そして、私が到着して20分後、父は完全に息を引き取りました。
夜勤の介護士さんが、
「こんなの奇跡です。絶対に間に合わないと思ってました・・・。
娘さんに、どうしても逢いたかったんですね。」と言ってくれました。
私は、まだ暖かい父の手足に触れながら、
「お父さん、今までありがとう」と心から言いました。
私とそっくりな手、私とそっくりな足。
「最期の瞬間に間に合った」という事実は
父が命がけで遺してくれた「娘への最後のプレゼント」なんだと思うと、涙が止まりませんでした。
家族が遠く離れているというのは、看取りに間に合うということさえ、「アタリマエ」ではないのです。
お通夜があけて外に出ると、目の前には、朝焼けの海がキラキラと輝いていて
頬をなでる潮風がここちよかったです。
私は、これまでの人生を振り返って、胸がいっぱいになりました。
後悔はなにひとつない。
「お父さん、いままでありがとう」
いつもキモチがすれ違って、言い争いも多くて、介護でもさんざん手を焼いて、
あんなに軋轢があった父なのに、
最期の最期は、「娘に会いたい」というシンプルで純粋な気持ちだけが残ったのです。
これまでの家族の歩みも、介護の日々も、
美しく昇華されていくような、不思議な気持ちになりました。
父のお葬式が終わると、施設のスタッフと一緒に、
満面の笑顔で、ピースサインで写真を撮りました。
哀しみよりも、むしろ、晴れやかなキモチでした。
そして私は、
お世話になった親戚やご近所さんに挨拶をすませ、
父の死にまつわる一連の手続きをおえると、ヨコハマの自分の居場所に戻っていきました。
17年という長い長い歳月をこえて、私のいるべき場所に、戻れたのです。
介護から解放された私。「自分の命(いのち)=残り時間」のつかいみち
私は、17年ぶりに、「介護家族という役割」から解放されました。
パートの仕事もやめてしまって、「しばらくは、なにもしない」と決めました。
もう、島に呼び出されることもないし、真夜中に出航する船で島に帰ることもないし、
バウムクーヘンをかじって空腹を満たすことも、
ゴキブリの糞だらけになった実家の掃除をすることもない。
もう、介護とはサヨナラだ。
「命=残り時間」なんだから、残りの人生は、楽しいことだけに使おう。
そう思っていました。
でも、不思議なものです。
「人生の後半は、楽しいことだけに使う!」
そう宣言したはずなのに、なんだか毎日、空虚に感じる。
やっと今、自由を手にいれたはずなのに、どこか満たされない。
ワタシのなかみが空っぽになって、なにもやる気がおきない。
いわゆる、燃え尽き症候群みたいなものですね。
そんな時、
たまたま参加した起業セミナーで、
「得意なことで起業する」という生き方に、出会いました。
ぼんやりと話を聴いているうちに、
「ワタシの遠距離介護経験が、誰かの役にたつかもしれない」
ということに、気がつくわけです。
そうしたら、自分の内側から自然に
「そうだ!これからは私が、ヨコハマのあつこさんになろう!」
という気持ちが、湧き上がってきたんです。
「遠距離介護の家族サポートは、私のやるべき天命なのです!」
コトバにしてみたら、ものすごくしっくりきたし、
その思いは、なにかに取り憑かれたみたいに、止まらなくなりました。
だって、考えてもみたら、
30代40代のほとんどを、「親と離れて暮らす介護」というテーマに向き合ってきたのですから。
遠距離介護をするあなたを、全力で応援したい! だって、あなたは「あの頃の私」だから!
わたしは、
「人生の休養宣言」という看板はあっさり下ろしてしまい、
新たに「遠距離介護のケアミーツ」という屋号を掲げて、
「離れて暮らすの家族の介護サポート」を始めました。
「ケアミーツ」は、
介護の「ケア」と出会いの複数形の「ミーツ」を足して「ケアミーツ」です。
あの日、
人生に絶望しかけていた私が、A子さんに出会えたのは奇跡的な「ミーツ」でした。
もし、いまこの瞬間にも、あなたが
遠く離れた親の介護(遠距離介護)で悩んでいるとしたら、
それは、まさしく、「あの時の私」なんです。
そして、あなたとA子さんが出逢う「ミーツ」が、日本中に広がったら、素敵だと思いませんか?
私は今、わたし自身が「横浜のA子さん」になって、この仕事に情熱を注いでいます。
私は、あなたに「あなたが理想とする未来」にたどり着いてほしいと願っています。
私自身は、かなりの遠回りをしながら、なんども絶望しかけながら、
ようやく答えをみつける事ができたわけですが、
遠回りした分、
たくさんの経験を積み、介護知識を積み、介護家族としての思いを積み、
なにより、離れて暮らす家族が本当に困っている事は何なのか、
どうすれば解決できるのかを、ずっと考え続けてきました。
そのことが、今に繋がっているのです。
「遠回り」を知っているからこそ、あなたに「近道」を示すことができるのです。
だから、今、あなたに伝えたいのです。
大丈夫です!
あなたもきっと、幸せな未来へたどりつけます!
あなたが本当に生きたい未来にむかって、一緒に歩いていきましょう!!
ちえさん